院長紹介・挨拶

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院長紹介

院長 中村光真(なかむらこうしん)

院長 中村光真

  • 経歴
  • 2004年3月北海道大学卒業
  • 2004年
    ~2006年
    千葉大学医学部附属病院歯科・顎・口腔外科
    船橋中央病院歯科口腔外科
  • 2006~2008年成田赤十字病院歯科口腔外科
  • 2008~2012年都内歯科医院勤務
  • 2012年~まつもと歯科クリニック勤務
  • 2016年4月なかむら歯科医院開院
  • 所属学会
  • 日本口腔外科学会
  • 日本歯内療法学会
  • 米国歯内療法学会
  • 塩田義塾
  • マイクロサージェリーマンツーマンコース(松浦顕先生)
  • Basic Course(松浦顕先生)
  • Advanced Course(松浦顕先生)
  • 藤本研修会歯内療法コース(石井宏先生)
  • マイクロエンド実習コース(澤田則宏先生)

患者さんへご挨拶

学生時代

研修医から勤務医時代

幼少の頃から足が速く、走るのが大好きな子供でした。しかし、勉強も、運動も1番になれ!と両親に教育されていましたので、そのプレッシャーから運動会の時期は毎年憂鬱でした。

そんな両親の期待を背に中学受験をしましたが、第一志望校には合格できず、私立の中高一貫校に進学しました。当時の私の性格は、今よりもずる賢かった様に思いますが、それだけでは希望は叶いませんでした。

そんな中学時代の鮮烈な思い出は、相撲大会に出場したことです。当時の私の体重は50キロもありませんでしたが、100キロ級の相手に勝ったことは今でもよく覚えています。 日常生活では遭遇できない緊張感、恐怖心、そしてそれらを乗り越えた時の爽快感は貴重な経験となりました。

研修医から勤務医時代

元々、文系科目よりも理系科目の方が得意だったこと、親戚に医療関係者がいてよく話を聞いていたこと、『医学生』という本に感銘を受けたことなどから、自分も医学の道に進みたいと思うようになりました。また、北国の方は皆さん、精神力、芯の強さを持ち合わせていると感じ、その強さを求めて北海道大学を目指すことにしました。

しかし、覚悟を持たない勉強では受かるわけもなく、力不足で跳ね返されました。それでも北海道大学への進学を諦めきれず、浪人することを決意しました。勉強のみに集中できる恵まれた環境でしたが、これまでの人生で精神的に最もつらい時期でした。何をするにも人生が前に進んでいない感覚がつきまとって、本当にきつかった記憶があります。

北海道大学への入試は、中学受験にも大学受験にも失敗し、両親の期待に応えられなかった私にとって、自分だけの力で乗り越えなければならない高い壁となったのです。常に孤独で、朝、予備校へと家を出てから、帰宅まで誰とも話さない毎日を過ごしていました。

研修医から勤務医時代

この様な状況になったのは、誰のせいでもなく自分の責任であり、楽して合格できる方法などあるわけはなく、地道に努力して力を付けるしかありませんでした。今までの不勉強のツケが回ってきた形で、自分の責任は自分で取ることを学びました。

また、浪人を決意した以上、両親の期待に応えたいという思いもありました。最高に集中して勉強した日は、脳が飽和して、充実感を覚えるほどで、これは、それまでの中途半端な努力では感じられなかったことでした。こうして、勉学以外の学びも多く、人間的にも成長できたと思います。

しかし当時は切羽詰まっており、センター試験前日は、不安から勉強が手に付かず、神社に神頼みしに行ったのを覚えています。余裕など全くないまま受験当日を迎えました。その様な状況でしたから、北海道大学歯学部からの合格通知を見た時には、自然と涙が溢れ、布団に伏して泣きました。これ以上の歓喜は、今に至るまで経験がありません。

ずる賢く立ち回って、現実から逃げてばかりいた自分が、変わることができたのだ!という思いもありました。現在の私の核心・真髄となっている「継続して努力すること」「やり切ること」「責任に向き合うこと」も、この浪人時代に培われたものです。今振り返ると、自分に必要な試練であったと感じています。

大学時代

勤務医時代

大学では野球部に入りました。大会や練習試合のために、色々な土地に出向いたり、 当地の名物を堪能したり、温泉に入ったりと楽しかった思い出があります。そんな中、先輩に「札幌マラソンに一緒に出ないか?」と誘われました。最終的には、 その先輩は出場せず、私1人で走ることになりましたが、完走後の爽快感と、地道に努力すれば結果に結びつく達成感を、思いのほか嬉しく感じたことを憶えています。

その結果、この時以来、陸上競技の走る種目に打ち込むようになりました。ずっと続けられる趣味を見つけられたという意味では、先輩に感謝です。今も陸上競技を続けているのは、中高生時代に本気でスポーツに取り組めなかった後悔も一部にはあるように思います。しかし、何より私の性分に合っていたのが大きいと感じています。陸上は単純ですが厳しいスポーツです。練習をしていないのに、たまたま速く走れて優勝!は、あり得ません。日々の鍛錬が必要です。しかも、闇雲に努力しても上手くいきません。正しい努力が必要なのです。これは、歯科治療に通じるところでもあります。

ちなみに100m走では、タイムが年々遅くなっていましたが、走り方を変え、正しい努力を継続した結果、46歳にして自己ベストを出すことができました。正しい努力の大切さを改めて実感した出来事です。

研修医を経て、勤務医にて研鑽を重ねる

未来に向けて

卒業を控えて、歯科医師国家試験が厳しくなるという噂が流れて、プレッシャーがかかる国家試験でしたが、何とか無事に合格・卒業して晴れて歯科医師となりました。卒業直後は、広い視点を持っていた方が良いだろうと思い、実家のある地元、国立千葉大学の口腔外科で研修医をすることに決めました。千葉大では、親知らずの抜歯、歯根端切除術などの基本的な手術のほか、様々な外科治療を経験しました。歯科医師は、とかく〝歯“のみを診がちです。しかし、その前に患者さんという〝人”を診ることの重要性も、千葉大では学びました。

元々、口腔外科一本で食べていくつもりはなかったので、大学卒業5年目からは、一般開業医の元に勤務することにしました。この時期の私には、歯科治療の全容が見えておらず、何が良い治療なのかも探っている段階でした。

そんな段階から日々の臨床経験を重ねるうちに、歯の神経の治療・根の治療(いわゆる根管治療)を受けた後、痛みや腫れなどのトラブルを起こすケースが多いことに気付かされました。

根管治療という治療への気づき

テキストが入ります。

その様なケースでは、基本的には被せものを外して再根管治療をします。どんなにきれいで高価な被せものが装着してあっても、根管治療がうまくいっていなければ、外して治療しなければならないのです。 虫歯治療の最終地点である根管治療がきちんとされていないと、抜歯へのカウントダウンが始まってしまいます。

また、昨今の患者さんは「家庭で行える予防やメインテナンスを頑張りましょう」と、歯医者の先生や歯科衛生士に言われることも多いと思います。しかし、根管治療がしっかりしていなければ、患者さんはメインテナンスの入口にも立てません。

根管治療は、患者さんの努力(歯磨きや家庭でのケアなど)ではどうにもならない、ほぼ100%歯科医師に委ねられる治療であるからです。この根管治療の重要性と、波及する影響の大きさに思い至った時が、歯科医師として自分の目指すべき方向が決まった瞬間でした。根管治療ができないと何も始まらないと悟り、34歳にしてようやく歯科医師人生に光が差してきたのです。

外科治療との繋がり

テキストが入ります。

そこからは、様々なセミナーで研鑽を積みました。しかし、根管治療をどんなに頑張っても、残念ながら上手くいかないケースが存在します。世界一上手い歯科医師が治療しても、根管治療の成功率は100%ではないのです。 ここで再び壁にぶつかることになったのですが、幸いなことに歯内療法(歯の神経や根の先を扱う治療分野の総称)には外科治療という奥の手がありました。外科治療を行うことで、根管治療だけでは上手くいかないケースの90%の歯を救うことができます。

『根管治療が右手としたら、外科治療は左手。両方できて初めて、歯内療法を行える。』 これは、歯内療法の大家である歯科医師の多くが口にすることです。研鑽を重ねて、その知識と技術をそろそろ患者さんに活かせると思い始めた頃、ここからが始まりだということなのか、偶然にも外科治療でしか解決できないケースの患者さんが私の元へと来られたのです。

その方にマイクロスコープ(暗い口の中の患部を拡大して見るための光学機器)下での外科治療を行った夜、『これからは、今まで救えなかった歯も助けることができる!』と、脳が興奮してなかなか寝付けなかったことを覚えています。

歯内療法の『最後の切り札』である外科治療をしても救えない場合、その歯はもはや寿命を迎えていると言えます。 口腔外科では基本的な(侵襲度が低いという意味で、簡単という意味ではありません)手術である歯根端切除術(外科治療)が、歯内療法では 「最後の切り札」なのです。

根管治療と外科治療は、ほぼ100%、歯科医師の知識と技術にかかっています。責任は重いですが、非常にやりがいのある分野です。私はこれからも、根管治療と外科治療を用いて、悩みを抱えている患者さんを1人でも多く救える様に、さらなる研鑽を積み、真摯に臨床を頑張る所存です。